プロレスとはヒーローショーである

山田FBが遊びに来たとき「プロレスが見てらんない」という話に。
あれだ。大人になってエンターテイメントを楽しめない人達にありがちな意見ですよ。
hage「ディズニーランドだって、ミッキーの中の人などいない!って言い張るだろ。それと同じだよ」
山「全然違うと思う」
あとは平行線。ムキー。



ま、ディズニーランドの例えはともかくとして。
プロレスはヒーローショー、だと誰かが言っていた。今は自分もそう思う。
「筋書き」を作って、そこはかとなく「善悪」を識別し、それを楽しむ。
先日のPRIDEでは、シウバが「サクラバの仇討ち」をするという「物語」が。
ミルコは「挫折を経験して這い上がる挑戦者」であるという「物語」が、観客の前に提供された。
「最強」を標榜する「PRIDE」という場には、本来不要な筈の「物語」が導入された理由は何か?
それは、人が、ドラマのない闘いには感情移入しにくいからだ。格闘技を技術で見られない(悪い意味ではなく)ライトな層の観客は、そこになんらかの「物語」を介在させないと、「闘い」を楽しむことが出来ない。
プロレスはこの「物語」の部分に、より比重を置いた「格闘技」だ。
そして「物語」の中には、予想だにしない結末を提供するサプライズ的なものもあれば、安心して見ていられる、予定調和の「物語」もある。
一般的なプロレスの試合は、後者である。
各地に行って、困っている人がいて、それを助ける最中にお銀の入浴シーンがあり、矢七のアクションがあり、最後に大騒ぎして印籠が出てきて終わる。
バイキンマンが悪さをして、新メカやカビルンルンで顔をやられ、アンパンマン号が急行し、バタ子さんが新しい顔を投げて、元気百倍!アンパーンチ!バイバイキーン!
「最初から印籠を出せば、事件は簡単に解決するのでは」
「なぜ毎度毎度顔をやられるのか」
それでは、一瞬で話が終わってしまう。物語を盛り上げるのに欠かせない伏線を張る必要も、その伏線を回収する必要もなくなる。
リアリティを前面に出すことによって、「印籠を出さずに事件を探り、解決しようとするストレス」、「奮闘するがやられてしまうストレス」がなくなり、同時に「印籠を見せ付けて、悪党が観念するカタルシス」、「仲間の協力で復活し、バイキンマンを退治するカタルシス」が失われることになる。
お話のエンターテイメント性が、(全部とは言わないまでも)失われてしまう。
プロレスは、「物語」に比重を置き、一種の「予定調和」を見せることによって、「最低限満足できるカタルシスは確実に提供する」。(もちろん予定調和の枠を飛び越えて、世紀の名勝負が展開されることもままある)



なぜ、ロープに振られて、戻ってくるのか?
なぜ、トップロープからダイビングするまで、寝転がっているのか?
なぜ、あんな隙の多い技を避けないのか?
そこに、技を受ける凄さや、何度でも立ち上がる美学が存在するからだ。もしくは、それを見せるべく存在するルールの下で闘っているからだと言ってもいい。
ボクシングを見て、「なんで蹴らないの?タックルで倒さないの?寝技で決めないの?」なんて聞く人間がいたら、その人は小学生か、もしくは相当大人気ない天邪鬼といっていい。




話の先が読めがちな予定調和にも、ルールの特異性も、プロレスには欠かせない。
そういうことですよ。
そこを受け入れられる者こそが、プロレスを楽しめる人間だっ!
まあ、ここまで言っても多分まだ分かろうとしないと思うから、もう四の五の言わずに猪木の試合見ろ。
猪木の試合は、部活で同期だったO田(どっちかというとアンチプロレス派)が、一緒に引退特集のビデオを見た時に、「これを他のプロレスラーもやってくれれば、プロレスってスゲー、と思うよ」と言わしめるだけの凄さを持つ。*1
必見!と。

*1:問題は、猪木がやったようなプロレスをできるプロレスラーが、今は存在しないということだ