いつの間にか既定路線。

裁判員制度がどうにも胡散臭い。
今までその決定過程に特に注目してこなかったので、「よく知らんのならそうだろう」と指摘されれば確かにその通り。
どうやら2004年辺りに成立した法律らしいので、その前後の新聞のバックナンバーでも探して、どういう議論がなされたのかを確かめてみよう。



というのを前提として、この裁判員制度ってのが、根本から頓珍漢な概念の上でできたとしか思えない。今のところ。
wikipediaに拠れば、

国民が刑事裁判に参加することにより、裁判が身近で分かりやすいものとなり、司法に対する国民の信頼向上につながることが目的とされている。

と、この制度の目的が説明されているが、「このフルコースに文句があるなら、お前が自分で作ってみろ」とシェフが切れたら、そりゃ「逆切れ」ってもんで、「二度とこんな店来るか!」と客が怒るのが普通であろう。
今そんな気分だ。
専門職である裁判官の仕事を素人の国民に投げて、「実際にやってみれば難しさや苦労が分かって、不平不満も減るだろ」と言っている。こんなものを考えた人間の目の前で、首を90度くらい傾げながら「バカだろ?」と罵りたい。
料理の話ならまだしも、裁判は「人が人を裁いている」のである。当然、そこには重みがなくちゃならないし、法に裏付けられた慎重な判断が求められる。だからこそ裁判官と言う専門の法知識を持った職業人が必要とされ、我々はその仕事にお金を払って裁判を任せているのだ。当然、彼らの給料には「人が人を裁くという責任」も含まれているはずで、いくら日当が払われるとはいえ、国民がそこに参加させられる義理はサラサラない。
刑事裁判への国民参加と、司法に対する国民の信頼向上なんてのは本来別の話であって、司法の信頼向上には裁判官の養成方法を抜本的に見直せばいい。
その対価に見合った仕事をする。そうなるようにすればいいだけの話だろうに。