インド 11月6日

電光掲示板に、帰りのタージ・エクスプレスの時間が表示されていた。列車の発車には、まだ2時間余り。ホームの番号を確認してから、構内をブラブラしていると、到着した客と勘違いしたオート・リクシャのおっさんが声をかけてきた。
曰く、「日本人は、皆なんでもかんでもNoと言う。なぜだ」と。
「あんたらが、法外に金取るからじゃない?」
ドライバーたちは苦笑する。暇潰しに、30分くらい話した。
徐々に辺りが暗くなる。ホームにも灯りが灯った。
腰掛に空きはなかった。床に敷くものも、持ち合わせていない。ウンコ座りでボンヤリしていると、薄汚れた身なりの幼女が、目の前に現れた。
すぐそばで店を広げている、物売りのおじいさんを頻りに指差すので、そのおじいさんの孫で、客引きでもしてるのか、と思っていたら、どうやら物乞いだった。
玩具がほしいから、買ってくれ、というわけだ。
元来吝嗇であるし、「与えるのでは為にならない」というどこかで見たか聞いたかした話を、思い出し、笑って首を横に振った。
物乞いはどこにでもいた。町にもいたし、駅にもいた。インドの物乞いは、老いも若きも「真っ当な」物乞いであった。日々の糧を得る分だけしか、収入がないからだろうか。それとも、隠れてささやかな贅を楽しんでいたのであろうか。だが等しく「貧しそう」であった。
カトマンズの物乞いの子供は、ビニール袋を口に当てながら、施しを要求した。こいつらには、同情の余地がない。等しく、「不真面目な」物乞いだった。
元来無感動な性質であるせいか、胸が痛むようなこともなかった。所詮は、他人の苦しみである。「この手の」議論は様々な時代に、様々な人が繰り返してきただろうから、今更自分が他人の意見に縛られて、「このように行動しなければ」、というようなプレッシャーもない。うだうだ考えた結果としての行動を、己の中で肯定できれば、それでいい。エゴである。
要はそのエゴと、他者の、二つのせめぎ合いを、社会的な部分でどう妥協していくかだ。
幼女は、構内のファーストフードで安いダルを食っている時にも付いてきた。ショーウィンドウに並ぶ菓子を指差して、頻りに「あれを買ってくれ」とねだった。
俺は笑い続けた。警備員に追い払われても、旅行者に邪険にされても、幼女はすぐに戻ってきた。

結局、彼女に何一つ与えることはなかった。ただ微笑んで、拒絶しただけであった。俺は写真を撮った。どうしようもなく観光客だった。だが、それでいい。自分の旅のあり方は、それでいい。
彼女との交流は、持てる者と持たざる者の、正しいコミュニケーションのあり方の、一つだったと思う。






ザムディン駅に着いた時には、時計は9時半を回っていた。山田FBが心配してるだろう。
ターバンを巻いたおっさんが、話しかけてきた。
「オート・リクシャに乗るか?何処に行く?」
「メインバザール」
「OK.Rs150だ」
そんなに払うか、とやりあっていると、ドライバーは「じゃあ、Rs70でいい。シェアする客を探してくるから、もう少し待っていろ」という。
乗ってきたお客は、欧米人旅行者の女性2人組みだった。
走り出してから気付いたが、相乗りでタクシーを拾ったことがなかった。日本でも、だ。
オート・リクシャが快走する分、唯でさえ「肌寒い」夜のデリーが、余計に寒かった。
メインバザールに着いて、2人組が先に降りた。余りにさっさと降りていってしまったので、いくら払ったのかも聞き忘れていた。
ターバンに、「いくら?」と聞く。「Rs70」という。言い値で払った。我ながら阿呆だと思うが、無理矢理納得した。疲れていたし、そこで何も言い出せない、それが俺だった。
ホテル・スコットに向かう路地の入り口で、山田FBがポツンと座っていた。
「遅かったから、心配したよ」
「悪いね」
さて、何から話そうか。
スコットの入り口をくぐりながら、ボンヤリと考えてた。