9・11雑感

同じようなエントリは無数に出るんだろうな今日…。
5年前の9月11日は、やっぱりバイトに精を出していた。今日付けを確認すると火曜日だから、元々シフトに入っていたわけではなかったと思う。
平日のせいか、9時を回ると客が引いていく。ホールの様子を見に行ったのか、それとも料理提供に出たのか定かではない。とにかく、ホールに出て、そしてキッチンに戻ろうとしたとき、何気なくTVに目をやった。
ビルが黒煙に包まれていた。「意味のある事実の理解」はされず、ただ「映像の認識」に留まった。
帰宅し、風呂に入ってラジオをつけた。事件をきちんと知ったのはそのときである。
報道特番は延々と続いた。デマが飛び交っていた。ホワイトハウスペンタゴン*1の前に駐車していた車が
爆発したという情報も流れた。
やがて睡魔に負け、眠った。

9.11 ~N.Y.同時多発テロの衝撃の真実~ [DVD]

9.11 ~N.Y.同時多発テロの衝撃の真実~ [DVD]

今年に入って、今まで見たいと思ってきたDVDを発見してレンタルした。同時多発テロの数ヶ月前、NYの消防署に配属された新米消防士のドキュメンタリービデオ。これを撮っているとき、テロが発生した。
現場へ急行する消防士。取材班*2も同行する。
緊張と不安が交錯する現場、そして崩壊。テレビ画面を通してさえ震えるほどの臨場感が、見る者を支配する。










人の命は、死という観点から見れば極めて平等である。走る距離が長かろうが短かろうが、どんなゴールの仕方であろうが、「ゴール」は用意されている。9・11自体は、飛行機を使った自爆テロである、という以外の目新しさはない。ある国の姿勢・体制に反発する、個人、あるいは集団が、国家と国民を攻撃するという、本質的にはオーソドックスな出来事の一つである。
どんな人間も、攻撃されれば身を守り、感情を乱す。理性と感情がせめぎあい、大抵感情が競り勝つ。理性的な判断は後から為される。右の頬を打たれたら左の頬も、を地でいける人間は、本物の宗教者か不感応者だ。
問題は、その気になれば一国で世界と渡り合うことも可能な圧倒的な「力」を持った国が攻撃され、その国の人々が死んだということだ。
人々は激し、贄を求めた。自省は影を潜めた。目には目を、報復せよ、敵はどこだ。戦いを諌める声はあまりに少数で、簡単に掻き消された。
それなりの調査が行われ、しかるべく贄が選ばれた。民衆は歓呼し、父を、兄弟を、息子を、送り出した。
一度目の戦争は、世界から概ねの支持を得た。情報操作と戦略が功を奏した。単純な善悪二元論が、世界を席巻した。「協力せよ、さもなくば敵」という、憚ることのない脅迫は、「9・11」を喧伝することによって、その暴力性を薄めた。
だが、二度目の戦争は、義のない戦争となった。捏造された情報を確信犯的に利用し、楽観論の下に戦争は見切り発車された。この戦争も、勝利のうちに終わった。少なくとも、公式には。








アメリカでは、9・11で2000人以上の人命が失われた。一方イラクとアフガンでは、それに数倍する人命が失われた。
彼らは「自国の安全」を、他人の血で贖って解決しようとした。「何故?」という問いを発した人間は、アメリカの中においてさえいたはずである。だが、国家として、自らを省みる姿勢は、これまでのところ見られていない。
対症療法の極致である戦争は、少なくとも今までの「国家対国家」の形式においては、アメリカの成功に終わっている。
が、薬はいまや効かなくなりつつある。アメリカが、9・11をきっかけに、世界を自らの望むままに変えようとするなら、対症治療だけでなく、根本治療が必要になるはずだ。
なぜ、アメリカは攻撃を受けたのか。単純に「自由を憎む敵」が攻撃を仕掛けてきたわけではあるまい。攻撃を受けた原因は何なのか、それを調査し、分析し、的確な「治療」を施す段階にあるのではないか。世界を「内側」から治療していく段階に。

*1:どちらか忘れた

*2:といっても2人