昭和の残照

引っ越す前に住んでいた家が、つい最近取り壊された。引っ越す前の家と今の家は、距離にして1km強くらいで、気軽にとは言わないまでも、少し足を伸ばせば眺めることができる。
1LDKの一軒家の借家で、風呂はガス式*1、トイレは汲み取りの和式だった。この家に住んでいたのは11の冬までで、もう今の家で過ごした時間の方が長くなってしまったが、どんな家だったのかハッキリ思い出すことができる。
縁側の向こうの、ドクダミが強く香るささやかな庭には、俺が生まれたときに植えた柿の木が立っていた。
風呂場の剥き出しの壁に沿うように、茗荷が生えた。
当時も友達が少なかったので、働きに出ている両親が帰るまでの間、ブロック塀に向かって延々とサッカーボールを蹴り、野球ボールをぶつけた。
炊飯器もガス式で、居間のちゃぶ台は、父が粗大ごみから拾ってきて、テーブルクロスをかけたものだ。朝食はキッチンのテーブルで食べ、夕食はちゃぶ台に載った。どんな理由だったかは分からないが、そんなルールだった。
トイレは、カタカナよりも「便所」という表現が似合った。霊も見たことがないくせに怖がりな俺は、結局この家では、夜中に1人では用が足せなかった。今でも客がいないとき、小用でドアを開けたままにしておくのは、多分このときの名残だと思う。上の妹は、3度足を踏み外した。良く歯ブラシを落として、バキュームカーが来たときに、茶色くなった「元」歯ブラシが見つかった。俺自身は全く覚えていないが、このバキュームカーというやつが好きで、小さい頃、自宅の汲み取りが終わった後のバキュームカーにノコノコ付いていき、全く赤の他人の家で、業者の子供だと思われて、リンゴをもらって帰ってきたことがあった。
今でも感心するのは、工業高卒で割といろいろなものを自作する父が、庭のガレージに子供部屋を増築したことだ。ブロックで土台を組み、廃材をもらったり拾ったりして断熱材を詰め、仕事の合間に作り上げた。



今は更地になってしまった、その狭い敷地の中に、平成、あるいは21世紀ではなく、前世紀の、「昭和」の、自分が生きていた「時代」があったことを、遠く近く思い出す。

*1:水を入れてから、ガスコンロのようにつまみを捻って火を付ける