自転車

佐井村からは、青森市内に向けて高速の旅船が毎日発着している。
大き目のボート、という感じの船で、50人も乗れば満員になってしまいそうだ。
下北半島の目玉観光地・浄土ヶ浜を望むルートであるため、完全に観光客向けかと思いきや、場所が場所だけに、住民の生活の足、また生活用品や食料品の輸送も担っているようだ。

ほくと号は、佐井村出発後、陸奥湾を南下、浄土ヶ浜付近で遊覧航行*1する。



二時間ちょいのクルーズを経て、青森港に到着。
ここから、母親に勧められていた、建設間もない青森県立美術館へ。開館記念のシャガールの特別展示をやっていた。

シャガールといえば…名前は聞いたことあるものの、イメージとしてはちびまるこちゃんで、花輪君の家に飾ってあったシャガールの絵を、まる子が気に入って…ぐらいしかない。
幻想的で暗めの色彩なのは、北国生まれだからか知らん。
シャガールについて、wikipediaにはこうある。

マルク・シャガール(Marc Chagall, 1887年7月7日 - 1985年3月28日)は、20世紀のロシア(現・ベラルーシ)出身のフランスの画家。
1907年、当時の首都ペテルブルグの美術学校に入るが、同校のアカデミックな教育に満足しなかったシャガールはやがてレオン・バクストの美術学校で学ぶことになる。バクストは当時のロシア・バレエ団の衣装デザインなどを担当していた人物である。

シャガールは1910年パリに赴き、5年間の滞在の後、故郷へ戻る。この最初のパリ時代の作品にはキュビスムの影響が見られる。1915年に結婚。10月革命(1917年)後のロシアでしばらく生活するが、1922年、故郷に見切りをつけ、ベルリンを経由して1923年にはふたたびパリへ戻る。

1941年、第二次大戦の勃発を受け、ナチスの迫害を避けてアメリカへ亡命した。なお、同郷人で最初の妻ベラ・ローゼンフェルトはアメリカで病死した。

1947年パリへ戻ったシャガールは、1950年から南仏に永住することを決意し、フランス国籍を取得している。1952年、当時60代のシャガールユダヤ人女性ヴァランティーヌ・ブロツキーと再婚した。1960年、エラスムス賞受賞。同年、当時のフランス共和国文科大臣でシャガールとも親交のあったアンドレ・マルローはパリ、オペラ座の天井画をシャガールに依頼。これは1964年に完成している。1966年、シャガールは17点から連作『聖書のメッセージ』をフランス国家に寄贈した。マルローはこの連作を含むシャガールの作品を展示するための国立美術館の建設を推進し、ニース市が土地を提供する形で1973年、画家の86歳の誕生日にニース市のシャガール美術館が開館した。

また、毒舌家としても知られ、同時代の画家や芸術運動にはシニカルな態度を示していた。特にピカソに対しては極めて辛辣な評価を下している。しかし、だからといってピカソと仲が悪かったわけではなく、むしろ、ピカソにしては珍しく、けんかをしないほど仲がよかったともいわれる。


ちなみに、青森県立美術館については、

青森県立美術館(あおもりけんりつびじゅつかん)とは、2006年7月13日に開館した青森県青森市の郷土文化を紹介するための施設である。所在地は青森県青森市大字安田字近野地内。三内丸山遺跡の隣に位置する。

設計者 - (株)青木淳建築計画事務所
敷地面積 - 129536.37m²
建築面積 - 7129.82m²
延床面積 - 15837.41m²
構造 - 鉄骨鉄筋コンクリート造(一部鉄骨造)
工事期間 - 平成14年10月〜平成17年9月20日
工事費(既契約額) - 約110億円
伊東豊雄が審査委員長を勤めた国際建築設計競技コンペの結果、建築設計者として、建築家青木淳が入選した。地下2階、地上2階で、遺跡の発掘現場のような土の大きな溝(トレンチ)に凹凸の白い構造体を被せるという設計で、三内丸山遺跡と一体化したデザインとなっている。この、上向きと下向きの凹凸の間にできる隙間を「土の展示室」とし、それ以外は「展外展示室」や「創作ヤード」とすることで、全体が美術館として利用できるように設計されている。

美術館の中心には「アレコホール」という空間が設けられ、マルク・シャガールによって作られた、プーシキンの詩、チャイコフスキーの音楽、巨匠レオニード・マシーンの振り付けによるバレエ「アレコ」の背景画3点(縦9メートル、横15メートル)を一度に傍観できるようになる予定。この他、常設展示室や企画展示室、シアター(220席)、コミュニティーギャラリー、キッズルームといったものも用意される予定。また、奈良美智が、『あおもり犬』(高さ約9メートル)と「八角堂」の展示空間を手がけている。

美術館及びホームページで使用されているオリジナルフォント・サインは菊地敦巳によるもの。

とある。
白亜の建物は、三内丸山遺跡の隣、県総合運動公園の中にある。







10年前に来たときもそうだったが、青森という土地の最果て感、寂寥感には圧倒的なものがある。日本最北端の、稚内とはまた違う、「自分の住んでいる島の一番外れ」という意識があるせいだろうか。
JR東北本線の終着駅は、そのまま海に面するように線路が途切れており、ホームから陸奥湾を眺めると、なんとも言えずに切ない気分が込み上げてくる。
帰宅するまでは、特に書くこともなかったので割愛。




ついでに、10年ぶりの青森再訪にあたって、心に残ってた場所とか。

青森港の、フェリー発着所。公園になっていて、ねぶた祭開催時には、全国からこれを見にツーリングしてきたバイク野郎が、緑地に所狭しとキャンプしてテント村状態になる。ねぶたを見た後、更にここからフェリーに乗って北海道へ向かう猛者もいるんだとか。
今はどうなってんのかなぁ。何せ10年前の話だし。

*1:つっても低速で走るだけだが