いじめ、カッコ悪い

「ヒデ、ラーメン食いたくね?」

「行くか、ゾノ」




…じゃなくて、こっちだ。

クロ現で「職場でのいじめ」について取り上げていた。
いじめ…いじめねぇ。以下書くことについてはあくまで自分の体験から来る感想であって、毒にも薬にもならないとのお断りを入れた上で。
いじめ、カッk(ry
というより、よくそんなことに使うエネルギーがあるなと感心すら覚える。本来面倒な性格で、他人どころか自分のことも「面倒」の範疇にぶち込めば、極力エネルギーを惜しむ自分にとっては驚愕すべき行為だ。
逆に、よくそんなに人に関わろうとするエネルギーがあるな、と言い換えてもいい。自分自身は、自分と大して関わりのない人間には、向ける注意や集中力は極端に低いし、向けたとしても一瞬のことだ。…それが自分の交友関係が薄い理由でもあると思うが。
基本的に他人が何をやったとか、何をしているとか、どんな人間であるとか、関係性の濃淡に比例してどうでもよくなっていく。
しかし、いじめる側にとって「どうでもよくない人間」が、つまりいじめられる人間なのだろう。
今いじめについて巷間言われている状況を、あるいは「普通の生徒」が、「普通の生徒」をいじめる、つまりいじめにはっきりとした理由が見えてこない報道を受信していると、「あの頃の俺って、よくいじめられなかったなー」と思う。
「普通の」生徒がいじめられるのである。いわんや、当時「オタクとみなされていた生徒」が「普通の生徒」よりいじめられる確率が低い、などという道理はあるまい。
大学生になるまでを省みて考えるなら、自分には、いわゆる「いじめられる」ような理由を備えた人間だったのではないかなー、と思う。
雰囲気は冴えない、器量は悪い、メガネ、小太り、坊主、喋り方が変、アニメ好き、マンガ好き、運動ができない…。
ちょいナル入った自分が、贔屓目を排除して列挙してみても、マイナス要因となる要素はこんな感じで完備していた。あ、友達もいなかったな。
だが、いじめられなかった。ほぼ。*1
*2
*3
クラス内でいじめが「起こっている」「起きていた」という情報もなかったと記憶している。

その原因を、さて、ナンデダロウ、と今考える。
クラスメイト、あるいは同学年の全員が全員、素晴らしくきれいで素直な心を持った子供達だった、というわけではあるまい。
マザー・テレサは「愛の反対は憎しみではなく、無関心。」であると言った。
確かに、無関心は人を殺す場合がある。「いじめる側」でも「いじめられる側」でもない、「その他大勢」の生徒がいじめに無関心であれば、『いじめ』は「やる側」と「やられる側」の間だけに限定され、それこそ最終的に被害者の自殺という形をもって完結するだろう。
だが、生かす場合もあるのではないか。
自分自身つまり、中・高時代の自分は「オタクな自分がいじめられるのだ」と自意識過剰にも恐れていたが、そんなものはただの杞憂で、誰もお前がどうこうなんか気にしてもいないし、どーでもいいのだ。つまり、よっぽどなことをしない限り、俺について「無関心」なのだ。
…と考えたとき、自分は中・高時代の自分が、クラスメイトの無関心によって救われていたのだな、と思うのである。







まあ、そんなのも一面的な見方なんだけどね。


※追記:ただその観点から話をしていくと、「オタクが、クラスメイト達の関心が『たまたま』自分に向かなかったという幸運の偶然でいじめを回避できた」だけであって。「子供達が子供達なりに高い意識を持ち、いじめを許さない、*4思いやりに溢れた社会」を作れば、「たまたま」なんかに期待しなくても、高確率でいじめは防がれる。
で、そっちの方がいい状況であることは言うまでもない。

*1:正確には、高校時代に一瞬だけあった。一年生の時、財布を、別のクラスの強面に持っていかれた。今振り返っても経緯はよく分からない。なぜその日に、自分が教室内のカバンに財布を入れっ放しにしていたのかも。何故そのカバンを級友が漁って、何故それが隣のクラスの強面に見つかって持っていかれたのかも。

*2:ただこれに関して「いじめ」と断ずるのに躊躇いがあるのは、自分がこの財布を返してもらおうと、それこそ意を決して交渉に行ったら、廊下に連れ出されてすごまれたものの、なぜか一円も盗られることなく、財布が返ってきた、という結末になったからで、これについても未だによく分からない。一連の経過についての記憶は、当時の心理状態のせいもあって混乱し、時間の流れもあって忘れているのかもしれないが、財布が無傷で、自分自身も暴力も振るわれることなく無事だったのは確かである。

*3:さて、これをいじめと言おうか。また、その事件を機会に誰かの標的になるということもなく、いじめとは無縁な高校生活を送った

*4:これ書くとちょっと胡散臭くなるが、適当な言葉か思いつかなかったので