或ルweb上デ綴ラレル死。

人の死をリアルに感じたことがない。というのは、つまるところ、その現象をもってして感情が動いたことがない、ということに通じる。
看護師を志す人間としては、いささか問題のある所であろう。
言い換えれば、他人の感覚をリアルに感じられない、または感じようとしない、ということでもある。患者の苦痛を、我が身のものとしないまでも、それを理解しようとし、心情を汲み取ることは、看護に必要とされる事柄である。
入職前後、介護職のぶつかる壁に、人の死というものがあると聞いた記憶があるし、そう思ってもいた。だが、この壁は、自分でも拍子抜けするほどあっさりと越えた。「人の死」というものが、「他人の死」としてしか感じられなかった。
他人への思い入れは、人との関係性の濃淡によって決まる。だとすれば、その数週間、あるいは数ヶ月間の間世話した人というのは、自分にとって「それくらいの間しか一緒にいなかった関係性の薄い人」と捉えていたから、その死に感慨を抱くこともなかったのだろうか。







いや、だがしかし。
数年前、父方の祖母が亡くなったときも、俺は冷静だった。というより、死に対しての予感があり、余命幾許もないことを知っていた。祖母の死は、その予測から導き出される当然の結果であって、不可避のものだ。人が老いれば死ぬのは必然だ。
だから、その死は、祖母が本来行くべき所へと赴くための一種の通過儀礼であって、一抹の寂しさはあったものの、特段の悲しみを感じることはなかった。
関係性の濃淡で言えば、その濃度が「濃い」と言える人の死に対してすら、俺自身は無感動だったのだ。






人らしくないのではないか、という恐怖があった。







昨日、一人の女性が死んだ。関係性の濃淡で言えば、間違いなく「薄い」と断じられる関係である。
俺がまだBLEACH!を追っていた頃、感想を更新するそのサイトが偶然目に留まった。あるweb製作会社に勤める男性の書く日記。そこで、その女性は度々登場していた。
描写されるほのぼのとした展開が、好きだった。
今日そのサイトを見たとき、目に飛び込んできたのは、「永眠しました」の文字。
言葉がなかった。衝撃を受けた、とまで言ってもいい。病気になってからも、そんなに深刻な病だと言う描写はなかった。病名からwikiで調べても、命に関わる病とはなかった。
だから、すぐに彼女が、また戻ってきてくれるものだと信じていた。
だが、死んだ。
死んだと聞いて初めて、会ったこともない、web上で描写される彼女が、好きだったのだと気付いた。
人の死によって、心臓をギュッと掴まれて、声が出なくなるような経験は初めてだったので、心底吃驚した。





こんな、社交辞令みたいなセリフは、なんだか言った瞬間に、その言葉も、自分自身も一瞬にして陳腐になってしまうような気がして好きではないのだが、今この心情を適切に表現するのに、他に代わる言葉が見付からない。
だから言う。
今はただ、彼女の冥福を心から祈る。合掌。