代理出産の当事者と関係者は、ネガティブな意見を当然のものとして受け止めなければならない。

この手の話は、自分の性別からして一生「本当に理解」することはできないだろうし、そもそも結婚もしてないし、ということは百も承知なのだが、一応思ったことを書き留めておこう。看護学生だから、あながち縁遠い話でもない。



代理出産>国内最高齢61歳の女性 不妊娘のために昨年

8月20日10時54分配信 毎日新聞

 「諏訪マタニティークリニック」(長野県下諏訪町)の根津八紘院長は20日、不妊の娘のために61歳の女性が昨年、代理出産していたことを明らかにした。28日に福岡市で開く日本受精着床学会で発表する。国内での出産例としては、最高齢とみられる。

 根津医師はこれまで、生まれつき子宮がないなど妊娠・出産ができない娘に代わり、実母が妊娠・出産する代理出産を4例実施したことを公表、このうちの1例にあたるという。根津医師によると、女性は60歳で妊娠し、出産時が61歳だった。根津医師は「本来なら若い人にしたいが、国内の体制が整備されていないため、このようなケースが出た」と話している。



一応書くに当たって、ネットで(笑)情報収集の真似事くらいはした。あとは教科書頼み。
その上で言うとするなら、やっぱりこの件に関する感想は、脊髄反射で「気持ち悪い」。多少情報収集をしても「気持ち悪い」。変わっていない。いや仕方ないと思う。ここまでアイデンティティの一部をなしてきた「倫理観」が拒否反応を示す。
61歳の老年期の女性なら、既に閉経してしている可能性が高い。つまり、月経が終了し、あとはいくら出し入れしようが、自然には「出産する能力を喪失した」状態にある。
この点については、代理出産に関与した根津氏も、

ただし自然界ではあり得なかった高齢妊娠・出産に関する様々な危険性は充分考えられます。

と認めており、つまりこの(祖母と言えばいいのか、母と言えばいいのか)女性には、「無理が通れば道理が引っ込む」的なことを行って、「自然界ではあり得なかった」出産を捻り出したわけだ。具体的に言えば、ホルモンの投与、受精卵の人工着床、帝王切開
いや、それ以前にだな。
祖母となる人が、実の娘とその配偶者の子供を宿す、ということ自体が、既に感覚として受け付けられない。




そりゃ出産にいたる行為にあたって、自分の旦那だって赤の他人なわけだが、
1.他人のもの(この場合精子)を自分に受け入れる(実際の性行為だけでなく)
2.想定される出産のリスク
この二つを上回る「理由」、があったから、カップルは子をなすはずだ。
だが今回、この「自然界ではあり得なかった」出産の正当性として持ち出される、「病気で生まれつき子宮がない女性が、実子を欲している」、「当事者間で了解がとれている」、「技術的に可能である」という理由は、どうにもこの「実母の腹を借りて自分の子供を得る」ことを最大公約数に、「理解」あるいは「共感」させるだけの重みがない。
代理出産を「ボランティア精神のもとに」と言い切ってしまうのも違和感がある。
この違和感を覆すだけの正当性が、代理出産を望む人、それを手助けしようとする人間には、もっと必要である。少なくとも根津氏が提示する要件には、代理出産の正当性を完全に補強するだけの重みがない。








もし自分の周りで、実際に代理出産関わった、あるいは当事者だった人間がいたとして、自分が「嫌いだ」と感じる人でなければ、表面上ごく普通に接することはできるだろう。ただ、心の中に、変にモヤモヤした違和感を抱え続けながら付き合うことになる。
それは自分の倫理観と、それに相対する存在とのせめぎ合いだ。最終的に、どちらが残るのか、それとも共存するのか、これは分からない。
代理出産を試みる人、代理出産をした人、あるいは代理出産によって生まれた人間は、その事実を白日にさらして「なんら問題はない」と胸を張ることができる日を待ち望み、そうした社会への変革を待ち望むだろう。
だがそれが「戦い」であることを、彼らは自覚しなければならない。
彼らが挑戦しようとしているのは、現代の大多数の人が抱くアイデンティティへの、完全なる挑戦であると認識しなければならない。
その戦いの先の勝利を確信するのは自由だ。だが、敗北も覚悟せねばならない。
それを自覚して、なお「良し」とする覚悟の重みと、そしてその「アイデンティティ」との戦いで流す血の量のみが、「自然界であり得ない」出産を、最大公約数が許すのに不可欠の条件となる。






余談だが、小学校高学年の頃、流行性耳下腺炎、いわゆる「おたふくカゼ」にかかったとき、陰嚢腫脹でずいぶんと苦しい思いをした覚えがある。
要は金玉が倍くらいに膨らんで、キリキリと襲ってくる痛みにウンウン唸っていたわけだ。
母親と連れ立って訪れた小児科で、「最悪、子供ができなくなる云々」という話をされたのを鮮明に覚えている。その当時は、まだ子供である自分が、「自分の子供」の話をされてもピンとこない、というか、「なんだ、そんなもんか」と思っていたが、今は、そんな予定も相手もいないにも関わらず、ゾッとする話である。自己愛でとか何とか言う前に、こりゃ重すぎるハンデだ。