ネパール 11月21日

9:50、ホテルMy Homeへ向かう。ロビーに通され、5分ほど山田FBとくっちゃべっていると、ヘルメットを小脇に、禿頭でメガネをかけ、浅黒い顔の柔和そうな人物が現れた。


「ウッタムです」


よかった。路上の楽器売りのおっさんでなくて。





ウッタムさんは、件の里親斡旋組織の会長。両親が訪れた時はヒラの職員だったが、その後秘書になり、前回の役員選挙で会長に選ばれたそうだ。所々正確ではないものの、意思疎通には支障のない日本語が話される人で、いかにも穏やかそうな初老の男性だった。
ウッタムさんの案内で、タメル・チョークからアサン・チョークへ、路地を入ってこじんまりとした雑居ビルの、組織の事務所に移動する。
事務所の壁には、子ども達の顔写真や工作が飾ってあった。両親とAさんから預かってきた養育費を手渡す。領収書を受領し、「初めてのお遣い、ネパール編」無事完、である。
やれやれ、肩の荷が下りた。
彼によれば、組織の職員は8人で、もうすぐ9人になるという。
ネパールの学制は、4歳から入学して、高校を15歳で(最短で)卒業する。組織は勉強はできるが、貧しくて学校に行けない子供を調査(本当に、貧しくて学校に行けないのかどうか)し、リストアップ。里親を世話し、子どもの就学のサポートを行う。
里子は現在350人おり、里親は職員の知り合いから広がっているので、日本人が多いとのこと。
薄く入れて甘いコーヒーを頂きながら、それらの説明を聞き、しばし雑談。組織の話や、政治の話を聞いたり。
ネパールは今現在共和制だが、当時はまだ王室が存在し、地方では毛派(マオイスト)と呼ばれる武装勢力がテロを起こして、政府軍と緊張状態、ないしは小競り合いの状態にあった。
その状況を利用して、例えば政治的主張も何もない、ただの山賊が、毛派を名乗って金をむしりとったりしている。毛派は貧しい農民で、外国人にむやみに手を出さない*1
ただ、「入域料」は幾許か取る。




お暇しようとすると、ウッタムさんに呼び止められた。日本から来たメールがあるのだが、分かりにくいところがあるので、少し手伝って欲しいと。山田FBの電子辞書の力を借りつつ、メールを解読。
その結果、日本へ留学する学生の成績証明書と住民票が必要、とのことだったので、これを日本語に翻訳。
チャイを入れてもらい、小一時間はこの作業を行う。
翌日の11時に、自分の両親の里子に会いにいく約束をし、事務所を辞したのは1時近くだった。



タメル・チョークで山田FBと別れ、リコンファームのリベンジへ。英語力も、機転もない人間は足で稼げ!
エア・インディアのオフィスを、地球の歩き方を片手に探す。
慣れない土地の上に、カトマンズは起伏に富んでいるので、歩いているだけでやたらと疲れる。インドと違って、リクシャもなかなかないし…。
またオフィスの所在地が「歩き方」と違い、20分近く「…地図ではここのはずなんだが…」と付近をウロウロし続けた。
無事にオフィスを見つけ、リコンファーム成功。次はエア・ネパール。
どうやらリコンファームの必要があまりなかったらしく、受付のお姉さんにきょとんとされる。それとも、わざわざオフィスにまで来てリコンファームする人間が珍しかったんだろうか。こちらもノー・プロブレムだ、と。良かった良かった。
現王宮付近は、歩道こそ若干デコボコしているものの、道路はきちんと舗装されているし、日本と大して変わらないように見える。




山田FBと合流後、共通の友人用の土産を物色する。
T-260Gには、ヤクの刺繍が入ったTシャツ。MA2にはタバコ。
バイト先の人も、大抵はタバコで済みそうだ。



夕食はギリンチ(チベットレストラン)へ。チキン・トゥクパは、ガヤーで食べたものよりトロミがあって、ダシも利いており(味の素かもしれないけど)、美味しい。
カトマンドゥのスーパーは、日本のスーパーマーケットと大して変わらない品揃えだ。何でもあるのは嬉しいし、助かるが、異国情緒、というか、海外旅行に来ているのだ、という感覚が乏しくなる。どっちがいいのか、考えものだ。

*1:ここの理屈は良く分からなかったが