ブログ論

それっぽいタイトルを付けてみたが、論理的な思考を展開したいわけでもない。
友人のid:T-260Gのエントリ、そうだ、まずはパンツをはこう。において、コメントしようとも思ったが、どうせなら対応したエントリとして書いた方が、こっちのエントリ数も増えるし、というわけで、野郎の製作物を拝借しつつ思ってることを書き留めておく。





野郎が「同年代のブログを参考にして作成した文章」がある。
そこでつかんだらしい共通点は、

基本的に、一文は短くする。
改行は頻繁に行う。
余計な情報は入れずに、出来事とその感想だけを簡潔に書く。
たまに顔文字を使って、文章に表情を付ける。d(*⌒?⌒*)b ニコ

こりゃ全くの私見ではあるが、同年代やそれより下の年代にとってのブログは、一つはメール文化の延長線上であり、もう一つは実際のコミュニケーションが基盤になっているからだと思っている。
つまり、ケータイでのメールは、インターフェース上の問題もあるが、一文は短いし、改行も多い。ケータイで見るには、その方が読みやすいからだが、PCを使ったときもその習慣みたいなものが変わらない。もしくは、ケータイでのブログ更新が主だ、という人が多いのかもしれない。



それより重要なのが後者の方で、そういう層は「ブログ」というものをコミュニケーションのサブツールとして認識し、利用しているのではないかな、と。
情報や意見の伝達、交換、共有は対面で行って、ブログはいわゆる「話のネタ」を自分の属しているコミュニティに周知させるための切っ掛けとして使っているだけ、というか。

例えば、「欧州サッカーリーグが大好きだ」と自称している人が、その天王山となる一戦を見たときの感想として、「○○(選手名)が凄かった」としか書いていなかったら、「お前、本当にサッカー好きなのかよ?」と思ってしまうだろう。

これが例えば「○○の股間の盛り上がり具合が凄かった」とか、「○○のバイシクルシュート時の開脚具合が堪らなかった」とか、嗜好がいくらか追記されていれば、「ああ、なるほど、そういうコトね」と、読んでいるこちらも納得できるのだが、ただ「○○が凄かった」というだけだと、「しらんがな」としか言い様がない。

その人と縁も所縁もない赤の他人が読めば、こんな反応が至極当然なのだろうが、彼らにとっては多分これで十分なのである。
コミュニティの人たちは、彼が既に欧州サッカーリーグが大好きなことを知っており、天王山の一戦を見たことブログで知る。これだけである。あとは、実際会った時、存分に話せばいいのだ。
「○○の股間の盛り上がり具合が凄かった」とか、「○○のバイシクルシュート時の開脚具合が堪らなかった」とかいうことを。
一々これをブログに書くのは、異なるコミュニティに属する人に同時発信するためであり、たまたま検索やらキーワードをたどってきた人間がコメントを残すかもしれないが、それに関する期待は書く側にもほとんどないはずだ。
自由時間は自宅警備に励んでいるような向きには、そもそも自分のことを知る内輪の絶対数が少ないから、より大多数の見知らぬ誰かを意識しなければならず、必然的に物事の概要から何から説明して、構成も行わなければならない…。でないと、引用部のように『「しらんがな」としか言い様がない。』受け取られ方しかされなくなってしまう。
や、書くにあたっては、きちんと「こう伝えたい」or「こう伝えなきゃ」と自然にできる人ももちろんいるんだろうが。
要は誰に向かって書かれているか、という問題で、そもそも赤の他人の思いなんかは、彼らにとっては関係ないんじゃないかな。「読まれる文章」を意識してないとでも言おうか。
例を挙げると、今の学校の人たちが結構な数属しているので、某SNSにも参加してたまに日記を書いているが、正直ここで書いているのと同じ調子で文章を構成すると非常に受けが良くない。まあこれは、自分自身の文章力や面白さがないから、といえばそれまでだが…。







一応上記二つは、「書き手の意識の問題である」という視点によって書いてみたが、これ以外にも「根本的に構文ができない人が増えてるんじゃないか」という考えもある。
自分自身も物書きを目指していた時期があったが、まあ実際書いてみれば、ブログだって4年は続けているのにこの程度だ。文章力的にも、ネタ的にも。
まとめてみると、id:T-260Gにはこれからも意識して面白いものを書き続けて欲しいし、俺もできる限りがんばりたいし、世のブロガーの皆さんも面白いものを書いて欲しいし、とこれに尽きる。
なぜなら、俺が楽しめるから、な。
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