吉村昭先生 死去

旅行に出かける前日、吉村先生の死を知った。「おぅ」と思わず声が漏れた。
全部の作品を読んでいない身には、ファンだなどおこがましくて口にできないが、好きで、何遍も読み返した作品がいくつもあった。
丹念な史実の調査と、あくまで淡々とした筆致、小説でありながら、ドキュメンタリーを見ているような錯覚を起こさせる。



最も好きで、最も多く読み返した作品。作家、吉村昭出世作でもある。
ある時代の日本人の心には、深く刻み付けられている「戦艦大和」の同型二番艦。
大和は大和型戦艦のフラッグシップとして、官営の呉海軍工廠で建造された。一番艦である上、史上例の少ない46cmという巨砲を装備している大和の建造は、当然多くの困難を極め、故にドラマチックであったと思う。が、ここで吉村昭が取り上げた題材は、二番艦「武蔵」である。
この小説のせいか、自分にとっては身近に感じられるのは「大和」ではなく「武蔵」の方だったりする。
呉は海軍の管轄であり、大和の建造には全面的な便宜が図られる。しかし、武蔵の建造を請け負ったのは、海軍の発注を受けて成長してきたとはいえ、純粋な民間企業である三菱造船所だった。
周りを高台に囲まれた特殊な地形、造船所の歴史の中でも類を見ない巨艦の建造、ドックではないため困難を極めた進水、厳重な機密保持への腐心、無茶な建造期間の繰り上げ、紛失した設計図、完成した武蔵、その生涯…。
技術者たちが「武蔵」の完成に全身全霊を傾け、苦心惨憺していく様には、思わず熱くなる。
吉村昭は「武蔵」という現象を通じて、そこから戦争の一面を明らかにしていく。

戦艦武蔵 (新潮文庫)

戦艦武蔵 (新潮文庫)


太平洋戦争前夜、太平洋上では連合艦隊の機動部隊がハワイを目指し、一方南シナ海では、陸軍部隊を乗せた大輸送船団が、タイ、マレーへの上陸作戦を敢行すべく粛々と航行していた。どちらも、完璧なる奇襲攻撃を意図し、その行動は厳重に秘匿されている…はずであった。
だが、中国南部で一機の飛行機が墜落したことによって、大本営は大混乱に陥ることになる。
真珠湾攻撃に伴う宣戦布告文書の手交が遅れたことなどは比較的有名だが、こちらは教科書では全く目にすることのない、開戦前夜の出来事を追っている。
中国の勢力圏に墜落した「上海号」に搭乗していた杉坂少佐は、開戦日、香港攻略指令、マレー上陸戦などが明記された命令書を携行していた。これが敵の手に落ちれば、全軍が秘密の内に進めていた作戦が察知され、奇襲は失敗、甚大な被害が出ることは明らかで、それは開戦初頭の大きな躓きを意味する。
開戦準備と、その中で起こった混乱、巻き込まれる人々が緊迫感を持って描かれており、特に中立を掲げ日本とも比較的良好な関係にあったタイへの上陸前後の動きは、自主独立を死守しようとするタイと、なんとしてもマレーを攻略したい日本側との緊張した場面の連続で、読み応えがある。

大本営が震えた日 (新潮文庫)

大本営が震えた日 (新潮文庫)


  • 深海の使者

日独伊三国同盟を結んでいた日本は、遠く欧州にある同盟国との連絡、物資輸送に重大な支障をきたしていた。空路を行くには、中立国、もしくは敵性国の上空を通過しなければならず、補給も受けずにそれだけの長距離を飛行できる航空機は未開発であった。シベリア鉄道はドイツの対ソ戦のため使用できず、艦船では制空権のない大西洋を無事乗り切ることができない。
取り得る手段はただ一つ。海中を進む潜水艦だけであった。数ヶ月にわたる航海を経て、遣独潜水艦は無事同盟国に辿り着き、帰還することができるのか?
「航空機は未開発であった」と書いたが、厳密には設計上ドイツまで辿りつくことのできる航空機は存在し、実際出発もしている。が、その消息は不明である。
イタリアが開発した長距離航空機は、日本の勢力圏まで到達した。が、日本側が距離は短縮されるが「無用な刺激を避けるため、飛行しないでほしい」と要請していたソ連領空通過コースを取ったため、この件は揉み消され*1、冷遇に業を煮やしたイタリア機は、再びソ連領空を通過して帰国する*2
ただ歴史を勉強するだけでは知ることのない、裏方たちの物語。

深海の使者 (文春文庫)

深海の使者 (文春文庫)




  • 零式戦闘機

第二次大戦中の、日本の軍用機の代名詞「零戦」。航空機後進国であった日本にとって、それは当時の技術の粋をかき集めた戦闘機であった。三菱重工業の技師、堀越二郎を中心とする開発チームは、低馬力の発動機、軍の過酷な性能要求に悩まされつつ、当時として一流の水準に達する戦闘機を完成させる。
前半は零戦開発の様子を、後半は、戦場に送り出された零戦の栄光と、その凋落、終焉を描く。
戦艦武蔵」と同じく、「零戦」という事象を通して、戦争と、それに関わる人々の姿を明らかにしていく作品。

零式戦闘機 (新潮文庫)

零式戦闘機 (新潮文庫)

 




  • 破獄

第二次大戦中、脱走不可能と言われた網走刑務所から脱獄した囚人が存在した。その男の名は佐久間清太郎。
佐久間は刑務所の過酷な仕打ちに反発して、二度、三度と脱獄を重ねる。誰も想像できないような方法と、驚異的な体力、驚くほどの忍耐力を駆使して。
佐久間清太郎を通して、戦中、戦後の日本の刑務所の実態を描き出す。

破獄 (新潮文庫)

破獄 (新潮文庫)


  • 熊嵐

北海道の小さな開拓村に羆が出現する。必死の思いで切り開いた、自らの生活を侵す羆。やがて羆は人を襲い、その味を占めて次々と「人喰い」を始める。
近隣の村を頼って村人は避難し、ついに軍隊まで出動する騒ぎとなる。村長は、「熊撃ちの名人」の名を持つ、偏屈な猟師に、羆の排除を依頼するのだが…。
羆がある家を襲った。シンと静まり返った村の中で、抗えない圧倒的な力に怯えながら様子を伺う村人たち。淡々とした(ありきたりな表現だが)簡潔な文章が、異様なほどの緊迫感を持った描写となり、読み手の目の前に圧倒的なリアリティを出現させる。恐怖と緊張に背筋が寒くなる。
実話を元に描かれた小説。

羆嵐 (新潮文庫)

羆嵐 (新潮文庫)





きちんと読んだのはこれらの作品くらいであるが、ちょっとずつでもいいので未読の作品を消化していきたい。
全集とか出た暁には是非買いたいなぁ。
吉村先生の御冥福を、心からお祈りして。

*1:イタリアでは大々的に発表され、日本は抗議した

*2:嫌がらせ?