マスメディアという権力に対して

権力に対する監視装置としてのマスメディア、という構図は、マスメディアの走りである新聞が生まれた頃にはもうあっただろうし、特に日本の場合、第二次大戦は政府や軍部が国民を騙して行ったもの、という意識があるせいか、戦後特にこの傾向が強い。
権力は常に弱者のために行使されるとは限らず、むしろ高圧的・強圧的に使用されることが少なくないのは厳然たる事実であり、どんなモノでも自浄・自省・自戒の能力に限界があることを思えば、これを監視して、不正は告発し、広く知らしめて、これが常に公正に使用されるように働きかける意志、そしてそれを体現する機関・組織は当然必要である。




さて、翻って考えるに。では、こうした「巨大な権力」に対して物申せるだけの「力を手に入れたマスメディア」を監視するのは誰であるべきなのであろうか。
例の捏造事件を契機に、放送法の改正が提起された。当然マスメディア側は、言論と報道の自由を盾にしてこれに抵抗する。
一つの規制が、新たな規制の呼び水になるのではないか、これが拡大して適用されるのではないか、という憂慮はされて然るべきだし、国民の知る権利が阻害されることは避けなければならない。
だが前提としての報道の自由とは、報道される情報の信憑性があってこそだ。他新聞の記事の盗用、マスメディア業界人の犯罪、報道の捏造…マスメディアへの信頼が揺らいでいる中で、報道の自由だけを声高に叫んで、「嘘の情報を流さない」という方策まで拒むのは、筋が通っていないのではないか。





まぁ、要は筋の通ったことをしろよ、と。(まとめた)