21世紀の耽美は果たして「本気」なのか?

銀座の、ルテアトルで上演されている「黒蜥蜴」を観に行く。金を出してもらって。
美輪明宏の舞台を見るのは、96年・02年の「近代能楽集より 葵上・卒塔婆小町」以来三度目。「若いうちから色々観ておきなさい」という親御の教育方針はありがたいものの、14歳の思春期にこんなもん観させられた日には、そりゃ耽美方面に多少嗜好が引きずられるようになってしまったのも仕方がない。








  • 銀座

八王子に住んでいると、どうにも23区内というのは、同じ東京都でありながら敷居が高く感じられる。
それが銀座なんて言った日にゃもう…。業界風に言えばザギンである。どこのパイルドライバー使いだ。
今回は観劇が目的なので、お洒落な店も華麗にスルー。
お祭だったからか、GW後半戦一発目だったからか、やたらと警官が目に付いた。

写真は、ルテアトル。







観客の年齢層は比較的高めで、女性が多い。トイレの混み方が物凄かった。






自分はオーラの泉を一切見たことがないので、美輪さんのイメージは、「葵上・卒塔婆小町」と、90年代以降のその他TV番組でちょこちょこ観た程度の情報量で形成されている。
流石に「神武以来の美少年」と銘打たれた通り、若い頃の姿は恐ろしく美しい。

中性的で、狂気さえ感じさせる、ゾクゾクするような色気がある。
今現在でも、(どちらかと言うと「妖怪」と言いたくなるような)この圧倒的雰囲気を持ち続けるのが、男でも、女でもない、「美輪明宏」というキャラクターでしか括れない存在である理由なのだろう。







黒蜥蜴は、美輪明宏演じる、緑川婦人こと女賊「黒蜥蜴」が、秘宝「エジプトの星」を奪わんがため、お互いの孤高性を理解するが故に、惹かれ合いながらも、名探偵・明智小五郎と対決するというストーリーである。
今回の明智役は高嶋政宏。パンフレットを見ると、どうやら初期の頃の明智役は天知茂だったらしい。

昭和に生を受けたものとして、明智小五郎と言えば天知茂である。「江戸川乱歩の美女シリーズ」は、たまたま再放送を観かじった程度だが、妖艶な江戸川ワールドの中で、その美声を響かせ、眉間にシワを寄せて、眼光鋭く犯人を追い詰める明智小五郎天知茂には、ダンディズムと、それに伴う有無を言わさぬカッコ良さがあった。*1
ああ、天知茂でこの舞台見たかったなぁ。







  • LIVEというものについて

記録文化にどっぷり漬かっているとたまに忘れそうになるが、TVにしても映画にしても「記録」である以上、一度撮ってしまえばあとは延々それを再生産するしかない。何度もリテイクしていく過程で、最終的に「記録されたもの」が「完成したもの」になり、それ以上は、いくら頑張っても向上させることができない。
対してLIVEは、生身の人間がその場限りで行うもので、全てがさらけ出される。演劇について見れば、神の降りてきたような演技も、何遍もセリフをトチって、ずっこけるような芝居も、見ることができるのが醍醐味だ。
自分自身は、その劇を何度も見る財力も、例え財力があったとしても注ぎ込む気もないのだが、それこそチケットを何枚も取ってその公演全てを見る人もいる。毎回変化していく舞台を楽しむことができるのは、いや、すごいし羨ましいなと思う。






  • で、肝心の内容はどうだったんだ?

期待して行った割にはいまいち…ということになるのだろうか。「葵上・卒塔婆小町」にあったような、あの全編に渡って流れるおどろおどろしい迫力というものは感じられなかった。
一幕ごとにかったるい場面が、必ず一度はあったし…。
後半の早苗と雨宮の恋模様に関しては、蛇足じゃないかとも思う。
迫力が感じられなかった点については、話の本筋である黒蜥蜴と明智の恋は、互いの能力と、その能力によって、他人との間に感じる埋めがたい溝があることに共感するという、一種のスポーツマンシップにも似た、ライバル関係の上に成り立っているからだ、という説明もできる。
つまり、黒蜥蜴が「私が私であるために、私を私でなくする貴方を殺して、私を完成させねばならない」という、自らのアイデンティティを侵食する(それもまた恋愛の側面だと思うが)明智に、愛憎入り混じる感情を抱く。その屈折した暗い闇に、ライバルとして互いを認め合う過程が、一条の光となって差し込んだ時、闇の禍々しさも、光の神々しさも、互いを打ち消しあうことになってしまったからではないか…。
うん、酔ってるな。自分に。







  • 平成の耽美と昭和の耽美

wikipediaによれば、

道徳功利性を廃して美の享受・形成に最高の価値を置く西欧の芸術思潮

耽美主義とはこういうもののことなのだそうだ。
あくまで自分のイメージ上での話でしかないが、昭和の耽美が、薄暗い照明の下、フィルムに切り取られた世界の中で、グチャグチャに織り成される美の一形態だとするならば、平成のそれは、もはやマイノリティの一部嗜好ではなく、無邪気に呑気に展開されるキャッキャウフフである。
…なんかいきなり手抜きの訳分からん物言いに。
つまり、人生に背負わされた重みであるとか、マイノリティであるが故に生まれた苦悩であるとか、そういうものが感じられない、能天気なエロごっこに過ぎない。
それはそれでお手軽で、自分だってそのお手軽さの恩恵を受けてはいるのだが、それを「芸術」や「美」かというと、言葉上に差はなくても、そこには本質的な違いがデンと横たわっている。
もはや背徳感も感じない(感じたとしても、「あー、恥ずかしい」程度で済むような羞恥心)モノには、後世にまで語り継がれるような価値というのは、毛ほどもないんだろう。
それを考えると、昭和という時代の濃密さと、現代にオールウェイズブーム(自分はこれが大嫌いだが)がくる理由も、なんとなく納得できる。

*1:今思えば、昭和の番組らしくサービスシーンが結構露骨だった。エロ飢饉に陥りがちな小学校から中学校時代に、テレ朝のミステリー番組再放送と並んで、おっぱいが見られることに興奮していたんだろう。