「やればできる子」は結局はできない子

読売新聞、5月8日付の夕刊でニートに関する記事があった。それが結構面白くて、関連したエントリでも書きたいな、と元の文章を読売オンラインで検索したが出てこない。
面倒クセー。が、やっぱり原文を引用した方がツッコムのも上手く行きそうなので、一つ要点だけでも。

高校中退後、5年ほどニート状態の女性。ウェートレスの募集に、
「自分は鈍いので、お店に迷惑をかけるかもしれない」と電話をかけることができない。
父親の知人が声をかけてくれたときは、
「父親の顔をつぶしたくない」と丁重に断ったという。
(中略)大学卒業後にニートになって3年近くたつ男性は、
「就職したいが、僕みたいな人間を採用しても社員の人に迷惑ですし…」
「専門学校も考えているが、途中で辞めると親に悪いので…」
(中略)背景には、失敗への恐れ以上に、他人への迷惑を過剰なまでに意識してしまう「きまじめさ」にある気がする。
自分の言葉や行動が場の空気を壊したり、誰かの気分を害したりすることに必要以上の不安や恐れを抱く。
(中略)こうしたことは、きまじめさゆえだと考えると説明がつく。

記事の執筆者はニートの社会的自立を支援しているNPOの理事長だそうで、まぁ経験則に基づいた上での考察であろうから、その点に関しては「その通りでございますか」と平伏するしかないのだが、どうも奇妙な感じが拭い切れずにいた。
「きまじめさ」…きまじめさ、ねぇ。
ニートに片足突っ込んでいた自分の経験則から物を言うならば、ここで挙げられている例は、いずれも自己愛が濃縮され、屈折して表出してきた結果ってだけじゃねーの、と思う。
きまじめさは無いとは言わないが、全ては「恐れ」から背を向けているのだ。それも「失敗への恐れ」ではない。「失敗したことで、自分が無能と見られることへの恐れ」であり、自分が傷付くのを極度に恐れているのだ。他人を気遣っている「ように」ポーズを取っているだけで、その実「お店」「父親の知人」「社員」「親」などに自分が評価され、うすうす感じている自分の無能さをはっきりと指摘されたくない。あるいは自虐的に「俺はダメなんだ」という予防線的な思考=「でもそんなことは無いはずだ」というわずかな幻想を壊されたくない。
つまり徹底的に第三者からの評価を回避することで、自らの精神への負傷をも回避していることに他ならない。
周囲を気遣うような素振りは、むしろ「自分を守る」ことの巧妙なカモフラージュに過ぎない。
筆者は自分より数多くのニートと接してきたのだから、この記事は上記のような、ニートのこの上なく甘ったれた精神状態を、全て看破した上で、なお彼らに希望を持たせるために書いているのだと思う。
でなければ、本当にお目出度い記事だ。





と、件の記事に関してはここまでにして。
今月間アフタヌーンで、篠房六郎が「百舌谷さん逆上する」というマンガを描いている。昨今のツンデレブームに対する、著者なりのアンチテーゼとして提示されているのであろう、このマンガの…まぁそれもどうでもいい。
主人公は「ツンデレ」という病に冒されている金髪の小学生少女。
彼女は言う。

いい?
まずは一切の希望を捨てなさい
全世界が、今そこに貴方が存在する事すら望んでないし、全人類が貴方の事を徹底的に嫌っていると想像してごらんなさい
(中略)最初から全員敵だと思って、充分に防御を固め警戒すれば、致命的なダメージは避ける事が出来るじゃない。

ツンデレの上っ面だけを借りて、そんなことを思っていた時期が、俺にもありました…。
それに対して、頑なな態度の主人公に言いくるめられてぐうの音も出ない女教師は、こう呟くのである。

分かるのよ。
あの子は自分が傷付きたくないから、あちこち必死に予防線を張りまくっている事くらい。
でもさー。
人生に起こる大事件なんてのは、そんなので防ぎきれるわけないんだよねー。

結局のところ、そのちんけなプライドを守るための、必死かつ滑稽な努力をしようがしなかろうが、「本当の意味で自分が傷付くようなこと」に対しては、大した意味を持たないモンなのだ。