拳に力を宿すものは、心にも力を宿らせねばならない。

力なき正義は無力なり
正義なき力は暴力なり

とも言うな。発言者はマス・オーヤマだとか、我らが宗道臣だとか諸説あるけど。

  • T-260G 斯く闘えり

T-260Gが大会に出場するというので応援に行ってきた。参加選手200人弱の、大きな大会で、彼は数ヶ月前からそのために練習を重ねた。
前々日に合ったT-260Gはと飯を食いがてら、大会についての話になった。
初戦は外国人、しかも同じブロックには、各階級王者、全日本王者がひしめく激戦区である、と。
『好きなスポーツは?』と聞かれれば『格闘技』と答える俺は、まぁ選手名の知識についてや興行についての聞きかじった知識はあるものの、技術論についてはとんと語れるものがない。
相手はロシア人。当然強い。T-260Gの実力が、例えば全国レベルでどれくらいのものかは分からないが、不利だな、と思ったし、実際彼自身も自分に分が悪いことを認めていた。
俺は浅はかにも言った。

「じゃ、勝ち負けを越えて、生き様を見せる試合だな」

だが、T-260Gは、それを静かに否定した。

「最初に、一発を狙いに行く。そこからは泥仕合だ。泥仕合でもいいから相手を引きずりこんで、それで勝つしかない」

まぁ、自分が試合をするわけではないにしろ、俺が吐いたのは唾棄すべき敗北主義の言葉だ。
興行重視主義に毒されているとも言う。アマチュアの場で、そのアマチュウリズムは勝ち負けでのみ体現されるのだ。彼は勝ち負けにこだわった。勝利と、その可能性を見ていた。
ああ、戦いの前に水を差すようなことを言ったな、と悔いた。


試合では善戦むなしく敗れてしまったが、友達が真剣勝負の場で闘っているのを見るというのは、最高に緊張し、手に汗握った。


  • 道。この道を行けば、どうなるものかエイシャオラー。

おい、アントンに、ずんのやす混じってんぞ。

それはさて置き。
と言うのを、話の枕とログとして、さてじゃあ格闘技を行う者の人間性を担保するような教育というか、訓練がもっと行われた方がいいんじゃないか、という話。
格闘技が他のスポーツと著しく異なるのは、それが戦う相手を、文字通り倒すための技術を競い合うものである、という点にある。
相手を積極的に加害する技術を教え、学ぶわけで、そういう意味で「その技術を持たない人」とは大きな隔たりが存在する。
そこで、正論が必要になる。曰く、模範になる人間を形成するとか、弱きを助け強気を挫くとか、説教めいた話だが。
誰だって、自分のよく知らない人間が「人間を簡単に倒す技術を持っている」=力を持っているのは、「怖い」とは直接感じないまでも「なんだか気味が悪い」存在だろう。
じゃあその不安をどう払拭して行くかと言えば…前述のように「行う者」やその組織の自省、自重に負う部分が大きくなってくる。
アンパンマンのような」「仮面ライダーのような」、いわば勧善懲悪の善人ヒーローが多い方がいい。
これは競技人口が増えると起こることでもあるが、強弱のヒエラルキーの中で、勝って頂点を取る人間はいいが、その他大勢の、「頂点を取るほどには強くないが、一般の人間よりは確実に強い」人間の拠り所を、「強さ」以外の点にも持って行かなければならない。
そういう意味で言えば、別に自分の出自だからマンセーすると言うわけでもないが、少林寺拳法の髭のジジイは、自分の組織と競技を普及するに辺り、その根拠を多分に宗教に求めつつも、少林寺拳法を「社会改善運動」と位置付けたのは、格闘技というものに対する正解の一つだなと思う。
哲学を学ぶ*1人間は、ジジイの理論を「浅っさい」と切って捨てていたが、人を傷つける技術を学ぶなら、それと同じくらいの比率を持たせて説教臭い正論を教え込まないと、危ないと思われるし、実際危ないんじゃね?という考えは支持できる。
ただ、そのあまりの宗教っぽさゆえに、人に薦めにくいのも事実だが…。
また、少なくとも「競技」という点から見れば、少林寺の、人の闘争本能を重要視していない(というか、きれいに見過ぎている)部分は批判を免れない。


  • 「剣を楽器に持ち替えよ」

と実際そう言ったのかどうかは知らんが、以前読売新聞で半藤利一が歴史に関するコラムを持っていて、その中で「へぇ」と思ったのがあった。
正確なソースがないのでうろ覚えだが、曰く、

太陽王ルイ14世が文化を奨励したのは、中央集権体制を整えるためであった。
つまり、各地の有力者、貴族が武力を持ったままだと、王室の立場が危うくなる。この武力を何とかして削ぎたいが、正面から行っては戦いになり、自分も少なからぬダメージを蒙ることが目に見えている。
なので、文化を奨励し、「文化」を「流行(トレンド)」にした。
『この剣を見てください!素晴らしい作りと輝きでs』
『プwwwwあんた、まだそんなの自慢してんの?今の世の中音楽と絵画だよトレビアン』


また、文化面で国王に貢献するものを重用した。つまり、権力に近付く道は盾と剣によってではなく、文化にどれだけの銭を払ったかが重視されるようになった。

…書いてるうちに、段々これで良かったのか分からなくなってきた。
要約して大意を汲むとこういう感じ、というくらいに思っておいてもらえると。
というわけで、支配する側にしても、『脳ミソまで筋肉』な者ばかりでは困る。そんな野蛮人が増えて暴れたら、国(この場合社会、と置き換えてもいい)が乱れる元になるから、なんとかしよう、と知恵を絞った結果、文化、あるいは学問というものの価値が、単純な『力』に対して相対的に上がっていったのだ。
この認識は、支配する側、という上下の方向性だけでなく、例えば社会の同列の人間達、という横方向の方向性の人々にもある程度共有されているもので、例え最終的には力だとしても、それを行使する『人間』が、思慮深くて、人並み以上の倫理観を持ち、正義感から行動し、「単純的な力」「その力のない自分達」と同列の『知識』を持っていると思えたとき、初めて双方のコミュニケーションは容易になり、理解が生まれ、『国治まりてのち天下平かなり』という状況になる。


  • まぁ要は何を言いたいのかと言うと。

一般に「格闘技」と言う括りの中に入る競技は、技術もいいけど心もお願いね、という話。

*1:自分の通っていた大学は、哲学に強かった