ウィキッドを観に行ってきた

オズの魔法使い」の裏話として構成され、西の悪い魔女・エルファバと北の良い魔女・グリンダの知られざる友情を描いている。
この作品は西の悪い魔女エルファバの視点で描かれ、オズの魔法使いの裏の歴史物語としてもの悲しく語られている。

オズの魔女記をウィニー・ホルツマンが書き直し、スティーブン・シュウォルツが曲を付けたミュージカル版ウィケッドは、原作を大幅に脚色しなおして、テンポがよく趣のある作品に仕上がった(そのため、キャラクター、ストーリーは原作とは異なっている)。境遇の全く異なる魔女2人の友情やボーイフレンドとの三角関係に焦点を当てながらも、肌の色の違いや動物たちに象徴させたアメリカ社会が抱える弱者への差別問題にメッセージがあり、最後にはどんでん返しも用意されている。

以上wikipediaの作品概要を抜粋。

  • 以下提出した思考

1.困難に立ち向かっていく勇気
 劇中、エルファバは、自らに責任のない「因縁ある出生」というマイナスポイントを背負わされる。父親の、クラスメイトの、道行人からの侮蔑、あるいは畏怖が、始終、遠慮会釈なく投げつけられる。
 これに対して、彼女は(魔法の才能、というきっかけはあるが)その屈辱によって培われた反発心、反骨心を持って、みんなを見返す、自分を認めさせようと強く決意する。
 「緑色の肌」というハンディを気にしながらも、そこから生まれる、人々の負の感情を、自分の才能と努力で屈服させてやる、という気概が育っていく。
 また動物達が声と知性を奪われ、その現況が「オズ」であると知った時、彼女は世界を敵に回してでも、いわれなき理由で虐げられる者たちを救おうと立ち上がる。初めてできた友達も、密かに想う人も、愛する肉親さえ捨て去る決断を下す。
そこにあるのは、彼女が(時によろめきそうになるものの)一貫して持つ「わたし」、言い換えれば「自分自身を信じる」という強い意志の力である。


 2.異なるモノへの理解と共感
 彼女は、その生い立ちからきてはいるものの、「普通とは異なる」というだけで阻害され、敵視されるものへの限りない共感と理解を示す。
 山羊の歴史教師が、何者かから攻撃を受けた時、彼女一人だけが、教師の持つ苦悩に寄り添い、それを分かち合おうとした。
 「意志」に支えられた「他者への優しさ」が垣間見える場面だった。


 3.理性と感情の狭間
 感情、あるいは本能に支配されるのが動物であるとするなら、人間が、その動物との間に引いた一線は「感情をコントロールする理性」であると言えないだろうか。
 であるならば、その理性、それを支える知性を養う場である「学問の府」、つまりエルファバやグリンダが通う「シス大学」の学生達は、学問の徒として、「人間」であることを体現していなければならない。
 異なるモノへの恐れは、動物であれば必ず持ちえるものである。動物の一類であるところの人間もその限りではない。だが、それならなおさら、その「恐れ」という本能をコントロールし、先入観や偏見を押さえ込んで相手とコミュニケーションをとろうとするのが「人間」ではないのか。
 少なくとも負の感情を扱うと言う一点において、知性は本能を凌駕しなければならないし、そうすることこそが「他と向き合う自己」のあるべき姿だと思う。


 4.友情、その絆
 エルファバとグリンダは、最後まで反目しあう。生き方と、愛した人を巡って。
 全てが正反対の二人を強く繋げるのは「友情」という一本の細い、しかし強い糸だ。いがみ合いながら、生き方や、あるいは恋人を争うという事態に陥ってなお、グリンダはエルファバを救おうとする。
 自由奔放に生きていると思われがちなグリンダも、こと「友情を大切にする」という一点においては、強い信念を持つ者なのだ。
 苦難や困難に遭遇し、時に折れそうになる心を支えるのは、自分を信じ、応援してくれる人の存在がとても大きい。そんな存在がいたからこそ、エルファバも、自らの試練に立ち向かうことができたのではないだろうか。


 5.見方を変える
 ラストシーンで、グリンダは案山子となったフィエロを受け入れる。「少し見る角度を変える」それだけで、世界は違ったものに見える。
 何かに疲れたとき、我知らず周囲が見えなくなったとき、苦しいとき、少し見る角度を変える。心の持ちようを変える、と言い換えてもいい。それだけで、日々を、豊かで実りあるものにできる。
 「客観視する」と言っても、いいのかもしれない。それは、自分の周りに様々な考え方や見方が存在することを思い出させ、「他者と共存する自分」をより中庸な存在へと、より成長させてくれるきっかけになるはずだ。

まとめ
 共感、理解、絆、理性、意志、これらの精神的要素は、「人間」がより完成に近付くために必要だと感じました。それを磨き、養うことで、「看護師としての職業人=自分」が、より理想に近付くことができれば、また近付くように努力しよう、と思いました。