エンターテイメントと不感症

これは何度か言及している、自分の性格であるとか、物事に対する見方であるとか、処世術であるとかとも大きく関係している話だと思うが、その枠内で話すと「普遍性」という面で共感されない話になってしまう気がする。
ので、その辺はそこそこ自重して書いていく。


  • 泣ける作品はありますか。

例えば映画や、マンガ、小説、舞台、ゲーム、およそエンターテイメントというカテゴリーで括れそうな作品を鑑賞するとき、ある種の期待を何割か抱いて見てしまう自分がいる。
ある種の期待、とは思わせぶりだが、何のことはない。要は、「泣けるか泣けないか」だ。
特に顕著なのが映画で、「感動作!!」などと煽りでそそのかされた日には、そう意識しないようにしようと思っても(その時点で十分意識しているが)「泣き」を期待してしまう。
これは別に、OLや女子大生や女子高生が(偏見)「チョー泣ける!」「マジ涙溢れた!」とか、不細工なツラで力説する「泣き」とは、チョト違う。
…違うということにしておいてくださいな。
つまり、泣くことによって感動したいとか、ストレス発散して癒されるとか、そういうことではない。
自分の中で、変に冷めている部分、冷たい部分、「人として少々欠落してるんじゃないか」(まぁそれが錯覚だとしてもだ)と思う部分を認識する。
そう認識する自分が、ある程度まとまった数の人が「泣ける」作品を見、同じように「泣く」ことで「あー、(いわゆる世間)一般の感覚と大差はないんだ」と確認するために「泣き」たいのだ。
こう書くと「人と違う自分カッコいい!」という異端性に誇りを持っちゃう厨二病患者っぽいが、誰しも大多数の平均と自分を比較し、それに近いことを確認して安心したい、という欲求はあるだろう。
例えチンコのサイズがアレでも、「四捨五入すれば10cm…11cm…13cmくらいだろ!平均平均」とかね。
その結果、「泣き」を売りにした「今年度最高の感動作!」と銘打たれた作品に、今一つ乗り切れない自分を発見する。
…あれ。他の人は感動しているようなのに、俺の心はさざめかないぞ、と。




  • あれ。感動してないの俺だけ?

ここで言いたいのは…まあ異端性にも若干かかってくるが、割と多くの人が「名作」と認める作品を見たとき、自分との評価のズレが気になる場合がある。
例えば以前のエントリで言えば、

amazonのレビューは絶賛の嵐なんですが。儲ばっかりレビューしてるのか、見た人の大部分が「傑作」と感じる作品なのに、単に俺がガキで、見る目がないだけなのか。

主人公たちの軽いノリと、マイペースな森本レオの演技が、良くも悪くも最大の特徴。中途半端なヤマと、全体的なメリハリに欠けるストーリー、ヒロインと子役の演技の拙さ、などが目に付いた所。

作品自体の質はともかく、エンターテイメントとしての面白さはいまいち。
王立宇宙軍 オネアミスの翼 - 訴状が届いていないので、コメントは差し控えたい。

これは、オネアミスの翼を見たときの自分の感想。
ただ当時も書いたが、この作品やたらと評価が高い。amazonレビューで言えば、全40件中最高点が29件。
今になってレビューを見てみると、高評価な部分は、綿密に設定され、表現される「世界観」であったり、新進気鋭のクリエーター達が自分達と同じような状況を物語に組み込み、有り余る若さを何かにぶつけるという「勢い」であったりするのだが、その部分を差し引いても「面白くねー」というのが自分の感じたことな訳です。
もう一つの例は、最近書いたとよ田みのるの「フリップフラップ」。
これも読み切りが掲載された時には、主人公もヒロインもかなりキレていて「早く連載しないかなー」と楽しみにしていてたのだが、いざ連載されてみると、主人公もヒロインも全く違う個性のキャラに変更されていて、思わずずっこけた。
で、これがまた「…面白くない」のだ。惹き付けられるものがない、というのか。
そしてこれもまた、はてなキーワードで言及しているのを見ると高評価な作品である。
良く考えれば、ネガティブな評価ばかり書き連ねるのは不毛である、生産性がない、言うのは野暮ってもん、だから書かない、だからそういう評価を見ない、だけなのかもしれないけど。



「ああ、人が面白いという作品を、面白いと感じることができないんだ」と思うと不安になってしまう。
中学生や高校生の頃なら、その疎外感を特異性と履き違えて悦に浸ることもできただろうが、今となっては「人が評価するもの、楽しめるものを自分が楽しめない」ことに対して、すごく損をしている気分になる。
さて、じゃあそう考えてしまう原因はどこにあるのか。