寝た子を起こす エンターテイメントと不感症 その3

ここ二回のエントリについて、id:T-260Gより長文コメを頂いた。ので、反応する感じでちょいちょい思ったことを書いてみたい。
もしかしたら、明らかに死んだ俺の子供(ここ二回のエントリね)が生き返るかもしれないし。
「カユ…ウマ…」な感じでかもしれないが。
揚げ足取りみたいに感じたとしたら、本意じゃないです。と、一応断っておく。

ここでのエントリーや普段の会話を聞いている限り、hagesanは元々のストライクゾーンがかなり小さい。
自分の中でエンタメの在るべき“正解”が結構固く決まっていて、その枠からはみ出すと、作品の落ち度として認識するところがある。

これはその通り。
ただ、これだと「人の好み」というレベルの話になってしまう。本当はそこじゃなくて、その一歩前の段階の、もっと普遍的な共通項で括れる理由を見つけて、「世間と自分の評価の乖離」に自分論を展開しよー、などと考えていたのだが、どう見ても失敗です。本当に(ry
まぁ最初から「言いたいこと」だけがあり、じゃあそれに肉付けしてこうと思ったら、その肉が腐ってたんだから世話はない。



フツーの人は、そこら辺もうちょっとアソビがあるんだよ。
あの程度先が読めてもそれを許容した上で楽しんだり、内容が悪乗りしていてもそれを作品の持ち味だと思ったり、分かりにくい表現があってもあとでそれを理解したとき良い意味で驚いたり、さ。

この辺りは多少誤解もあるな。何も全て「自分の好みに合わない物=評価が低い。0点」と断じているわけじゃない。例えばパッケージに付いてくる煽りは商売だからいいとして、それをほぼイコールにするような高評価に違和感を持つ、ということ。「…いや、面白いけど、そこまでじゃないでしょ」という感じの。
プラスの点は認識し、かつ評価した上で、他の誰かが下すそれ以上の(俺にとっては)過剰な評価には物申したい、と。
これは、普段の評価のしかた、言い方も問題あるか。




大人になるにつれて、そういった感覚の枠が拡がる人もいれば、そうでない人もいると。

ここがキモ。
じゃあ、「そういった感覚(ストライクゾーン)の枠が拡がる人」と「拡がらない人」がいるのは何でなのか?と。要はこれを言いたかった…んだと思う。今となっては。
ここに、また懲りずに前回のエントリの結論を持ってくる、としっくり来るかもしれない。



豊富なエンターテイメントコンテンツの中で、自分にしっくりくるものを繰り返し見た結果、「感動」の感覚が麻痺して、閾値がやたら上がった状態になってしまうんではないかな、と。

つまり、養殖モンで味の素をたっぷり振りかけた料理を「うまいうまい」と食べていたら、「これを食べたらもう養殖なんて…」という天然ものを食べても「…フーン」くらいにしか感じられなくなっちゃってるというか。
2009-02-06 - 訴状が届いていないので、コメントは差し控えたい。

ああ、後半は言い方を変えよう。ズレてるから。
つまり、

  • 自分なりのストライクゾーンがある
  • 情報収集が非常に容易になった現代で、「ストライクゾーン」の取りかたが自分と似ている人を探すのは難しくない。
  • その人の好みを参考にすれば、「ストライク」を取れるボールが簡単に手に入る
  • 勢い、手元に「ストライク」ばかりが(たまにはボールもあるが((球だけに)))集まる

限られた資金や時間の中で、効率的に「当たり」を引いて気持ちよくなりたければ、自分の感性にあったモンだけを手に入れて、それを味わえば良い。
「自分の感性に合う物」を、繰り返し、「自分の感性に反応する体験」が条件反射になるまで味わった結果、「自分の感性」に反応するものには敏感になり、その感性の閾値から外れたものに対する反応は鈍くなる、ということはあるんじゃないか、と思うわけです。





おお、生き返った!?黄泉の国から戦士たちが戻って来たぁぁぁ!!

「乙事主さま落ち着いて!死者は蘇ったりしない!」
cv.石田ゆり子が的確なツッコミを入れてくれたので、この先は一人でひっそりタタリ神化していこうと思う。