東京五美術大学連合卒業・修了制作展 「それは芸術なのかやっつけなのか」

先日、文化庁メディア芸術祭に行ったつもりが、うっかり美大の卒展を見る」という体験をエントリとしてアップした。
当該エントリでは、会場で取った写真を乗っけただけだったが、今回はそれについて感じたことを書き留めておこう。




  • 「真っ当な卒業制作」

さて、卒業制作というからには、各学生が学生生活最後の一年(あるいはそれ以上)を費やして、自分が大学で学んだこと、究めたことの集大成が形となっているはずである。文系の大学生ならば卒業論文だし、理系なら卒業研究がこれにあたる。
卒業論文の思い出といえば…正直ろくなもんではない。
典型的なモラトリアムであったこの男は、学校に行っても、授業中に延々ゲームボーイアドバンススーパーロボット大戦Aをやっていたし、授業中に書きもしない小説のプロットを延々考えていたし、授業中に同じ教室の人とは一度もしゃべらなかったし…そもそも学部学科に友達が一人もいなかったし。
そんな風だったから、当然卒業論文の進行状況も捗々しくなかった。4年になってから所属するゼミには、授業以外に顔を出すことはなく、教授ともコミュニケーションが取れていなっかた。あげく、大して資料や先行研究が多くないテーマを選んで、見切り発車的な論文製作に突入することになった。
その後の道のりといえば、片道の燃料を積んで死地に赴いているようなもので、愚にも付かない内容で文字数を稼いで、なんとかC評価をもらいに行く有様だった。提出期限の日に、大学までの到着時間を逆算して自宅を出発したら、やはり焦っていたんだろうか、飛ばしていた自転車が、路地から出てきた車の側面に突っ込んで空を舞いかけるというおまけまで付いた。




…まぁ、俺の話はどうでもいい。
製作物の優劣は、少なくとも自分の理解の範疇であれば、読んである程度の出来の判定は可能である。
だが、こと話が「芸術」という部分に及ぶと、途端に判定が難しくなる。
これは五美大卒展で見た作品だが、床の通気口(?)の縁取りの部分に、出しかけのウンコのようなオブジェを並べた作品(?、でも、タイトルが付いてたから作品なんだろう)があって、
「…これ、やっつけじゃねーのかな…」
ふとそう考えた。ただ、いまいち自信がない。「これが芸術なんです」とシレッとした顔で言われてしまえば、そうなんかなと納得せざるをえない。かけた労力や、時間や、物質的なものが、制作物の評価と直結しないと思っているからだろう。
それにしたって、先日書いたうんこエントリでT-260Gに指摘されたように、自分の中に確固とした価値基準やら好き嫌いがあれば、惑わされない話なんだが。
自分の技術論がなかなか通じない物に対しては、「俺の評価は正当な評価なのか?」、あるいは「これどう評価すりゃいいの?」という不安が常に付きまとう。この場合の「正当」とは、むしろ「正しさ」より、それを評価した人々の平均値内に、自分の評価が収まっているか、くらいの意味だけど。
会場内には、いわゆる漫画的な絵画も展示されていた。その「漫画的な絵」に対して、少なくとも「漫画的」な部分に関しては自分が「いい」と感じる基準が通用する。ただ、「所謂漫画的な『絵』は『芸術』としては評価されない」という先入観もある。結果、「素でこれを描いてるならちょっと…だけど、分かってて描いてるならこれは「いい」(この場合の「いい」は「芸術性」的に)ものなのかも」という曖昧な結論になる。
要するに、あの数百に及ぶ作品群の中で、「ヤベー、時間ねー。もういいや!これで!」というものは、一体いくつあったんかなと。


  • 「何が芸術なのか」

チャロー・インディア展で感じたこととの対比になるが、例えば「椅子とオブジェ」があり、その椅子には案内員が座っている。その「作品に座る案内員を見ている観覧者」までが一つの「作品」として展示されていた。
「送り手」と「受け手」が明確に線引きされていない。「見ている自分さえも、作品を構成している」ということを意識させられた時、少し感動した。
自分が、その「芸術の一部」になっている。すなわち、自分自身も芸術として存在しているのである。そう考えたら、キャンパスの中で展開される「枠にはまった物」だけが芸術なのではなくて、なんにでも芸術性を見ることができる。ただ、こう言ってしまうと、最早もう何でもありである。まぁこの辺になると、もう言葉の定義とかの問題になってしまうが。
ただ、卒展を見たあとに、チャロー・インディア展を見ると、美大の枠にとらわれた「芸術」というものの収まりのよさに、なんだか歯がゆさを感じてしまうのである。
もっと独りよがりというか、「若さゆえの過ちでした。テヘッ☆」と言い切れるような勢いを出してもいいんじゃないか。
「熱い血燃やしてけよ!」


  • ご飯を食べられるということ

結局商業的な評価が芸術性に結び付かない、という話はままある。ゴッホだって、生前売れた絵はわずか一枚(ギャラリーフェイク知識)だったというし。
自分の好きなものだけ描いた結果、野垂れ死んでは何にもならない。自分が美大で培った何かを、何かしらお金になる仕事に生かさなくてはならない。…現実的なのは、デザイナーとかだろうか。
そもそも美大に入る人たちは、なにを目標にするんだろう。ただ、昔から絵が好きだったから?芸術家としての大成を望んで?
西原理恵子は、漫画の中では「芸術とかどうでもよくて、絵を描いてお金が稼げる」ようになるために美大に行っていたと描いている。自分で「美大の中では底辺」と自覚していた西原らしいエピソードではある。
誰に聞いたか、かなりうろ覚えでいい加減な話だが、ソニーのエンタメ部門に入社した人間は、三年くらいで独立しなければ、「才能がなかった」判断されるという。日芸出身のお笑い芸人も言っていた(気がする)が、「芸なんてのは教えられてどうにかなるものじゃないから、無事に卒業までいるようじゃダメ」だと。
…なんか、卒展に出品した人たちを全否定しているな。
12行前をもう一度読んでほしい。芸術家として飯が食えて、なおかつ大成して、歴史に名が残る、なんてのは頂点中の頂点の話。
多くの美大出身の人たちには、別におゲージュ性なんて大してなくてもいいから、自分たちが直感的に「Coooool!」と絶賛できるものをデザインする職につき、それを手頃なお値段でバンバン提供してもらいたいと思う。




本当にただ思ったことを、思ったままにぐちゃぐちゃと書き留めただけになってしまったなー。
特に反省はしていない。
オチなんかクソ食らえ。
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